合い言葉は「Kobe Tomorrow」

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阪神淡路大震災前のアクタス・六甲店の外観。
明治23年に建てられたレンガ作りの製麻工場跡地を利用して作られた。

そうした様々な努力によって、アクタスは赤字から脱却。ようやく利益を出せるようになってきました。その矢先、忘れることができない事件が起こりました。1995年1月17日午前5時47分。阪神淡路大震災発生。
この地震によって、アクタスは売上の25%、利益の35%を生み出していた「アクタス六甲店(神戸市・灘区)」を失いました。要であった六甲店を失ったことで親会社が今後も支援し続けてくれる可能性は急激に低くなりました。当時、全営業部門の責任者だった西弘信氏は、大沢商会の倒産により自らが体験した「解散」という混乱をアクタスに及ぼすことはできないと、すぐさま行動に移りました。
アクタス心斎橋店(大阪・心斎橋)が入っているビルの7階を仮設店舗として借りるための賃貸交渉、崩壊した六甲店に近い六甲アイランドでの特設セールの交渉、そして旧六甲店の地主であった小泉製麻への仮設店舗出店の交渉。当時、直営店部門の責任者だった福本智稔氏をリーダーとして、スタッフ全員が「Kobe Tomorrow」を合い言葉にそれらを急ピッチで進めていきました。
そして、震災から約1ヵ月後には、崩壊した六甲店の向かいに140坪の仮設店舗ができ、1年後には400坪の臨時店舗が完成。これは当時の混乱の中では驚異的な早さでした。そこには小泉製麻と竹中工務店の多大な協力がありました。自社の店舗を閉めてでも、アクタスのためにその場所を貸してくれた小泉製麻の植村社長は後にこんなことを言っていたそうです。
「あのとき、地域の人々はアクタスが崩壊したと悲しんでおられましたが、同じ敷地にあった小泉製麻や小泉製麻が経営していた店が崩壊したとは誰も言ってくれなかった。地域を元気にするためにはアクタスを復活させることが最優先だと思いました」。

小泉製麻
1890年設立の繊維製品・繊維資材メーカー。
アクタス六甲店のあるサザンモール六甲を関連事業として運営。

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